こよみのアトリエ

詩とか日記とか何かの感想とか。自分のことかいいことしか言いません。

『人魚は外界の夢を見る』

17の制服は、強化ガラスの水槽だ。

 

食卓で。教室で。部室で。塾の前で。

私は並べられる。私は評価される。

通学路で。駅前で。コンビニで。ショッピングモールで。

私は展示される。私は値踏みされる。

 

大切に育てた蕾たちは、

貴方達に踏み荒らされました。

「まだそんなことやってるの?」

「そんなことして何になるの?」

「もっとやるべきことがあるでしょ?」

「夢を見るのもいい加減にしなよ」

分かったような口を利くのですね。

目も合わせてはくれないくせに。

 

綺麗に保ってきた姿見は、

貴方達が砕き割りました。

「本当にセンスないよね」

「もう少し意識したほうが良いよ」

「もっとあの子を見習いなよ」

「そういうのほんと可愛くないよ」

まるで私はお人形ですね。

量産型と勘違いしていて?

 

「貴女のためを思って」って、

貴方達はいつも言うけど、

思っているのは私じゃなくて、

貴方の理想の方でしょう?

 

凝り固まった価値観で、私に値札を付けないで。

私は、昔の貴方じゃないの。

汚れきった願望で、私の両目を塞がないで。

私にはもう、今しかないの。

 

17の制服は、強化ガラスの水槽だ。

魚のように。金魚のように。

私は飼われる。私は育てられる。

人魚のように。見世物のように。

私は飼われる。私は育てられる。

 

汚い水で溺れそうなの。

誰でも良いから連れ出して。

生きていけなくなってもいいから、

この水槽を壊してよ!

 

当てにならない分類で、私の時間を止めないで。

私は、あの子と同じじゃないの。

聞き飽きた一般論で、私の未来を奪わないで。

私にはもう、今しかないの。

 

 

17の制服は、強化ガラスの水槽だ。

 

誰でもいいから、連れ出して。

 

 

 

以下、作品解説等。

 

福岡ポエトリー 11月回 発表作品

 

 

人魚の話です。

でも泳ごうとする人は皆人魚なので、要は誰かの話です。

 

時間がなかったのもあり改稿なしで読み、

構成をしくじったせいで詩の持ち味や間を活かしきれず、

11月の福岡ポエトリーは個人的に反省しかないのですが、

この詩単体は気に入っている部類に入ります。

読む度に福岡ポエトリーでの地獄がフラッシュバックするのがつらいですが。

あと現行のままだと良くない鋭さがあるので必ずどこかで改稿します。

 

「常識」「王道」というものが嫌いです。

 

いや、別に型破りな存在でいたいとか、

「王道が嫌いなので私は人と違うことばかりします」とか

そういうことが言いたいわけではないのです。

寧ろ常識や王道の重要性はよく理解しているつもりです。

 

嫌いなのは、常識を押し付けてくる人たちです。

常識というか、セオリーというか、与えられたレールというか。

「あれがしたい」「これになりたい」と言った時に、

「できるはずがない」「いつまで夢を見ているんだ」

「そんなこと言って恥ずかしくないのか」「現実を見ろ」と、

大声で怒鳴りつけてくる人がいます。いました。

 

いや、そりゃあ高校生・大学生なんてまともに現実見れてないですよ。

夢と理想ばかり語っているかもしれませんよ。

でも私からしてみれば今この瞬間が全てであって、

キラキラした遠くの世界に手を伸ばそうとした時に、

「甘えるな」ってその手をはたき落とされたら、

もう、そのキラキラした目の私は死ぬしかないじゃないですか。

 

しかもそんな人に限って、「君のためだ」なんて悪びれもせず言うんです。

ふざけるな。お前に私の何が分かるんだ。

『少年A』とか『女子高生1』みたいな見方しかしていないくせに。

テンプレートな対応で正しいことを教えた気になって、

1人で悦に入ってるだけのくせに!

私の目を見ることすらしないくせに!!!

 

この詩の核にあるのは、そんな悔しさです。

私の今この瞬間から、キラキラを奪わないで。

長い時間を生きてきた大人からみれば、それはくだらないことかもしれないけれど、

それは私からみれば、どうしようもなく大切な灯火なのです。

 

……ところがどっこい。

核だ何だと言いながら、

この詩はそんなシンプルな気持ちだけでは書けていません。

かなしいなぁ。

 

例えば。

それは大人たちの言いたいことが分かってしまう自分だったり。

「小説家になりたい」とか、「歌手になりたい」とか言っても、

それが人と違う道である以上必ず困難が待ち受けます。

成功する人より挫折する人の方が遥かに多い世界です。

そんなことは分かっているんです。そこまで子供であるつもりはありません。

そして私が大人の立場なら絶対簡単に「頑張れ」とは言えません。

背中を押すということは、つまりその子の人生に責任を負うということです。

 

私に、その責任は負えないです。

だから、その手をはたき落とす人の気持ちも分かるのです。

気持ちが分かるのにそれでも叫ぶのは、もう、ただの子供の我儘です。

 

例えば。

それは「私はこうなりたくない」と泣く自分だったり。

「私に責任は負えない」とは言いましたが、

年を重ね、いずれ私の目の前に同じキラキラした目を持つ子が現れたとき、

私は、背中を押してあげられる大人でありたいのです。

その道の険しさと辛さを真っ直ぐに伝え、

その上で一緒に戦ってあげられるような人間になりたいのです。

でもそれは、それこそ地獄のような道で、

敵対する人もたくさん現れるような世界で、

それでも私はきちんと、本当の意味で未来を守れる大人であれるだろうか。

それがとても怖いのです。

「君のことを思って言っているんだ」なんて定型文を繰り返しながら、

思考停止で誰かの夢を殺すような大人にはなりたくないのです。

 

例えば。

「背中を押してもらえたとして、私は夢を叶えられたのだろうか?」と、

途方に暮れる自分だったり。

このキラキラを認めてもらえたところで、

私は別の言い訳を探して自分でそれを捨てるのではないか?って思ってしまいます。

実際、私が目を逸らしているだけで、

こうやって捨てられてきたものはたくさんあるのではないか?

それでもお前は自分の目が曇っていくのを、

全て大人たちのせいだと言い切るのか?と。

いつもそうやって自問自答しています。

 

これ以外にも言語化できるもの、言語化できないものが混じって、

数えるのも億劫になるくらいいろいろな思考や感情が押し寄せてきて、

どうしようもなくなりながらがむしゃらに書いた詩がこれになります。

自分でもどうしたいのか分からなくて、

結局私はこの抱えきれない何かを、

どこかの17歳の少女と、

彼女に手を差し伸べてくれる、居るかも分からない誰かに押し付けたのです。

 

『私はあの子と同じじゃないの』なんて言ってもらいながら、

私自身彼女を記号として使っているのですね。

ほんと馬鹿みたいだと思います。

 

そんなわけで、少しいつもより長くなってしまいましたが、

『人魚は外界の夢を見る』の解説(?)でした。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

 

いつか、自分の手で強化ガラスを壊せるようになりたいです。